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東京で唯一、全国でも数十ヶ所にしか伝わっていない貴重な珍しい田楽の奉納。
中世に流行した田楽の姿を良く残していると言われています。
王子田楽の起源は、芸態や王子神社の歴史などから考えて、南北朝時代(後醍醐天皇在位の1318~39年)頃ではないかと思われますが、断定できる資料はありません。
王子田楽は、昭和19年以来長らく絶えていましたが、昭和58年に復興され、昭和62年に北区の指定無形民俗文化財となりました。
最大の特徴は木あるいは竹を数十枚つづったササラという楽器を踊りながら鳴らします。左から1と3番目の子どもが手にもっているのがササラ。
現代に残された数少ない田楽という芸能の中で、しかもその芸能の基本的要素をしっかりと伝承してきた王子神社の田楽は、他の地方と比べてもどこのものとも似ていない独特のもので、往時の日本の伝統文化の高さを今に伝える文化財の顕著な例として、広く日本の文化遺産として高く評価されています。
王子田楽の武者2名を「四魔帰」と呼びますが、田楽本来の呼び名としては「尻巻(しまき)」で、「尻巻」とは田楽衆を取り巻いて警護する武者のことなのです。王子において「四魔帰」と字を当てたところに魔帰しの思想を折り込んだ創作者の意図が感じられる訳です。
この田楽の御一行を王子神社宮司がお招きするのに「七度半」というお使いを立てます。何度もかなわず、ようやく八度目に田楽方の登場がかなうのですが、お使いは社殿と田楽方との間を七回半行き来するわけで、「七度半」と呼ばれます。
その御一行を鎧武者3名、(露払い武者1名、四魔帰(しまき)武者2名)が警護して待機します。四魔帰武者はそれぞれが各7本づつの太刀を帯び、大きな力、多くの力を表現します。王子田楽の武者の異形は全国に例を見ない名物的存在です。
最大の特徴は木あるいは竹を数十枚つづったササラという楽器を踊りながら鳴らします。
おどりは「子魔帰」を主役とした構成になっていて、魔を退散させることを祈念すると考えるのが妥当で、花笠に魔よけの赤い紙をさげています。
王子田楽をおどる8名の内、とんがり烏帽子(えぼし)風の花笠(これは僧侶の燕尾帽(えんびぼう)の風流化したものと考えられます)をかぶった先頭の2名が「子魔帰(こまがえし)」と呼ばれる神童役で、平たい花笠をかぶった他の6名がそのお付きの一行ということです。
上半身で表現する身ぶりは首を傾けることと、しゃがんだ場面でササラを床になすり、または床に打つということ以外は、手に持つ楽器をことさら高くかかげるといったことも無く、ほとんど足の動作にかぎられているのが特徴です。
最後に縁起物の福まきがある。昔、花笠を取り合った喧嘩祭を現代風にアレンジしたものです。
参考出典;王子神社・王子田楽衆発行パンフレット