川越は、昔から武蔵国の中心地で、江戸時代徳川家の重臣が代々城主となった重要地であった。
江戸から近いこともあり、川越街道は中仙道よりも早くから物資輸送に使われ、新河岸川を利用した船の運搬も盛んになり賑わった。
東京から一番近い城下町で、東武東上線急行で池袋から約30分で川越駅に着く。西武新宿線では所沢経由、本川越駅。JRでは埼京線川越駅と現在でも3社の交通機関が利用できて便利である。
川越城は最初から石垣や土塁でした、また天守閣ではなく富士見櫓でした。江戸城に遠慮して天守閣を作らなかったといわれています。本丸御殿や城下町独特の迷路、鍵の手のいりくんだ街や数多くの見世蔵造りの商家が町並みを形成し、城下町の雰囲気をかもし出している。
川越の城下町は江戸時代に都市計画ができ、小江戸と称されるほど繁栄した。
明治26年(1893)3月、川越大火が起こり、川越町(当時)の3分の1を焼失しました。
この大火に何棟かが焼失をまぬがれて残った蔵造りの店舗が、重要文化財「大沢家住宅」です。そしてこの大火を契機に防火の意識が川越商人の肝に銘じたため、次々と防火造りの「蔵造り店舗」が建築された。
川越の蔵造りの店舗は、いわゆる「蔵造り」として有名です。蔵造りは当時の防火としては最高の耐火建築でした。
このような蔵造りの店舗は、当時としては大変な金額でした。明治28年頃で1万円以上の経費であったという。現在でも約30棟もの建物が使用され続けていて、往時の面影を伝えている。
一番街の通りに面して建ち並ぶ蔵造りの町並みは、現在の東京では見る事ができない光景と言えます。
建築年代は江戸中期(1792年)で当初呉服太物の豪商が店舗蔵として建てたもので、川越大火からの焼失をまぬがれ、川越商人に防火、耐震構造の重要性を認識させ、多くの店舗造りを建てさせるきっかけにもなった建物です。
外観の特長は、2階正面の窓で川越では唯一の土格子造りです。火災の際には幅2尺の土戸を外側にはめ込むようになっています。
土蔵造りが定型化する以前の様式を伝えるもので、関東地方の町屋でも古い方に数えられる貴重な建物です。
営業時間:午前9時30分から午後5時30分まで。入場料:大人200円
問合せ先:電話0492(22)7640
一番街の中央には蔵の内部が見学できる蔵造り資料館がある。
明治26年(1893)の川越大火後に建築されたもので、同年中には上棟をすませるなど、工事着手、完成は最も早い。全体の外観は黒漆喰仕上げで、店舗部分2階の窓は店蔵では観音開扉となっている。
敷地内の建物としては、1階は事務所、2階、店蔵背後に2階建ての座敷、2階建ての二番蔵(煙草蔵)、三番蔵(文庫蔵)の内部が見学できる。
二番蔵の横には、屋根瓦が展示してあり間近で見ることができる。遠くで見るよりも迫力がある。
開館時間:午前9時から午後5時まで。入館料:大人100円
問合せ先:川越市立博物館 電話 049-222-5399
川越市立博物館
時の鐘は、寛永年間(1624~1644)に川越城主酒井讃岐守忠勝が建てたのが最初といわれているが、たびたび建て替えられた。
蔵造りの町並みから路地越しに見上げることができる。
周りに大きな建物がないだけに、青空にそびえたつ木造3階建ての建物は大きく感じられる。
現在のものは、明治27年の再建で高さ16.2メートル、江戸時代のままの形である。
現在は電動式となっていますが、1日に4回、町並みに鐘の音を響かせています。
天台宗の古刹、1547年天海僧正が来往し、中興の開祖となり、徳川氏の後援を得て栄えた。
徳川家光の命により、江戸城から客殿、書院、庫裡が移築された。1638年の川越大火によって山門、経蔵、鐘楼などを残して焼失した。
家光が再建をはかったのはこの後のこと。五百羅漢は境内の一角にあり、人間の喜怒哀楽の表情をよくとらえた石仏群で、全部で540体が並んでいる。